翌日の出来事。⑤

主はあっさりと「偽名をつかいました」と

笑って席に着かれました。そんな冗談をいう意外さとともに

僕は一気に緊張し背筋が伸びかけましたがひと呼吸おき、

主ご自身の、あの店での立ち居振る舞いを思い出すようにしていました。

どなたにも落ち着いて、ゆっくりしゃべって、話しすぎない。

そして、聞く。

 

主は穏やかな口調で言います。

 

今日はすべてお任せします。

ふだんは蒸留酒ばかりなので日本酒を教えてください。

 

書き忘れていましたが、

店の主は50歳を越える(であろう)方でした。

彼ははるか後輩である僕にでさえ、

ただの一度も乱れた言葉を使いませんでした。

 

僕はまず、同業の大先輩に教える知識など…というような

保身の為だけにあるような謙遜を、やめることにしました。

「それではご用意していきますね」

平静を装ってそう言うのは思っていたよりずっと勇気のいることでした。

店の主は笑ってうなずかれました。その表情は店でみるものとはちがう、

完全に穏やかな私生活のものでした。

彼は日本酒を飲み、魚を口にすると

やおら店内やお料理、そして選んだお酒を誉めてくれました、

うれしかった。

喜んで頂けているご様子がうれしかった。

僕は緊張がとけ、すっかり元気になっていました。

 

そして主は最後に世界中の蒸留酒ファンを代表するみたいに

ボウモアをきっちり一杯召し上がったのち、席を立たれました。

僕は当時の蒸留酒に他の選択肢がなかったことを詫びるとともに

「僕はグラッパが苦手なんです」となんとなく伝えました。

すると

 

うちにサシカイアのグラッパがありますから、

それならきっと大丈夫でしょう。明日にでも飲みにいらっしゃい。

 

そう仰って下さいました。たぶん一言一句と間違っていないはずです。

――飲みにいらっしゃい。

そんな日本語をさらりと使う主へ、

翌日は定休日ながらご予約を頂いていましたから

御宴席が終わり次第すぐにうかがいます。と伝えました。

 

そして翌日2月28日月曜の23時頃、後片付けに手間取り少し遅れます、

そう伝えようとした僕からの電話が主につながることがなかったのは、

すでに彼が亡くなられていたからです。

 

――つづく。