「レアなささみ串を食べる」

気が向いて、家の者も誘うことなく飲みに出た。
 秋の始まりの、夕方のことである。この季節は涼気にあふれていて、さっさっさっと歩を進めるサンダルから出たつま先がひやりとする。天井高い空の雲はもこもこと気持ちよさそうに並んでいる。

道路の向こうからひと組の男女が車通りの切れ目を見て渡ってくる。夜の勤めらしき着物姿の女と、その客だった。化粧から漂う隙のない色気と、堅気らしからぬ真っ黒に染められた生地からそう思った。そして、すれ違ったあと、はたとその女を知っていると気づいた。若い頃によく通っていた焼鳥屋の看板娘であった。ふりかえったものの、初秋の風を扇子であおぐ彼女の後ろ姿を見るにとどめた。

——看板娘は泣いていた。
小さく鼻をすすり、目を真っ赤に腫らしながら、その華奢な拳で握ったジョッキに慣れた手つきで生ビールを注いでいた。その泣き様は、今しがた起きた理由からではないようであった。店内では、ネクタイを緩め、煙草を挟みながら思い思いに杯をかたむける男たちが一様に同じ赤ら顔でげらげら笑っている。すすきの祭りの晩であった。表通りの交通をふさぎ、たくさんの夜店がならんでは客を座らせ、さしたる理由もない酒を、夜通し皆がぶがぶと飲んでいた。その熱に照らされた夜に、女はこっそり咲く花のように泣いている。ジョッキをカウンター客に出しているが、店の活気と、相手が酔っていることでその涙に気づく客は私だけのようだった。

本来なら好物の、鮮やかな緑のわさびがたっぷりと練りつけられたささみ串が届いて小躍りするところに、すこし気がかりな存在を見つけてしまって私はいたたまれなくなった。話しかけこそしなかったが、だからこそ彼女の涙に気づくことのない、観察眼もデリカシーもない酔客に小火みたいな憤りを持ちはじめていた。こんなことにも気づかないから、あんたたちは駄目なんだ。あんたらは、ハラスメントを訴える女性や、うつ病になる若い奴に、大袈裟だ、ヤワだ、根性なしだと浴びせるではないか。だいたい、我慢こそ至高の努力であると、自分たちができもしないそれを、若いこちらに押し付けてくるのは無芸に等しい管理能力ではないか。その証ともとれるのが、目前で二十歳かそこらの娘が、泣いていることにも気づかないとは、あまりに鈍重ではないか。涙の訳は知る由もないが、怒りか悲しみか、もしくはその両方を堪えて働き回っている。私は、串をひと口やって、ビールを流し込み、マスターに感謝の言葉を述べた。相変わらず美味しいですね。「これ、好きなお客さんが多いのよ」と長い相棒のお母さんが笑う。

 

カウンターの中で、炭をごろり転がしながらちゃっちゃっと小気味いい音を出して火力を整えながら無言でお父さんは次々に串を並べていく。店主夫婦が看板娘の涙に気づいていないはずはない。こんなことは言いたくはないが、マスターも部下の管理はしっかりした方が良くはないかと思ってしまった。稼ぎどきに、ぱんぱんの水ふうせんに迂闊なひと刺しだけはしないよう放っているのかもしれなかったし、仕事の姿勢を教えるためにそうしているようにも見える。それでも忙しさを支える彼女のケアは必要ではないか。娘は、指の背で涙を切ってカウンターから受け取ったささみの皿を、気の利かない中年の元へ運んでいく。ついに連中のひとりが彼女の様子に触れた。

「おうおうどうしちゃったんだよ涙なんて」

やだあ泣いてなんてないですよう。と娘は涙声で笑いながら、昨日の夜更かしであくびをしたせいだと応えた。中年男はそれでも、相手のアンちゃんはいくつなんだ?若い奴は元気の限度がないだろうと笑って、手をゆるめない。連れも笑った。なんて品のない男たちだろうか。

マスターが不足した買い物を娘にふって、その場から彼女が離れたから良いようなものの、明らかに彼女は困憊を極め、そそくさと外に出ていった。途中、このビルの共用トイレで表情を整えて戻ってきてくれることを祈り、ジョッキを手に取る。

それにしても。と思えば、いくらでも改善点のある男たちであった。酔いに任せ、他人にもたれ、それでも勤める会社を、国を支えているのは俺だと言わんばかりのような顔をしている。妻を笑い、政治を笑い、そして子に相手にされない互いを笑う。そして、いまだ看板娘を寝かせなかった男はどんな奴なのかと大笑いしている。勘弁してはくれまいか。

——しばらくして艶々と若々しい頬をして娘が戻り、店の活気にふたたび花を添えた。そしてなにかを取り戻したように先ほどから喧しい常連の名前を呼びながら日本酒のおかわり持ってきますかあ?と注文をとった。

常連は、けらけら笑いながら、これ以上俺に酒を飲ませてどうするつもりなんだ、そもそも俺は酒と女が苦手なんだよ。と言ってまた周りが笑う。そこに乗っかってまた隣の男が、お姉ちゃんは何が苦手なんだ?と尋ねたので、こいつはいい。と思った。よし。少しは言ってやれ。なんなら思いっきり言ってやれ。君のひと言で男たちも目が覚めるかもしれない。いや、男たちがなにか大切なことに気づくことはないだろう。それでも君の誇りのために思ったことは言うべきだ。そうだ。土足で心に入り込んでくる大人を許してはいけない。いや、きみが自由に生きるためにはなんぴとにもそうさせてならない。そのためにもいま、君が思う苦手なことは、金輪際きっぱりと伝えたら良い。

娘は、そうですねえ。と、一拍おいてはっきりと言った。「お節介な男ですね」

 

今回の不親切案内

焼鳥T  駅前通を南下、ラウンドワンとファミマの交差点を東に。美唄焼き鳥のビルを越えた雑居ビル一階奥 日曜休