そな田日記

  • 過去の日記やHAC機内誌に連載しております

「和食店主の不親切呑み歩き案内」はこちらに随時更新しております。

●HACボツエッセイ

不親切案内

「友人とシュークルートを食べる」

店は、西陽が似合う雑居ビルにある。

さいきん、若い女優と不倫をはじめた。と話す友人とふたりで食事をすることになった。このエッセイの話がきたとき、書いてみればいい。面白いものが書ける。と彼の言葉が後押しとなり、3年以上も続けてこられた、借りに近い思いを抱く古い付き合いだった。

里帰りした札幌には情報がないというので、私が予約したフレンチである。

レストランにつづく三条通りには、銀杏並木の絨毯が、急ぐ足並みにまとわりつく。初秋の風はすぐに肌を乾かし、あの暑さの記憶をすべて消す。

ビルの2階に上がれば、どこか古い図書館の風情を忍ばせた木の床が広がる店内の奥、街路に面した窓に差し込む緑黄の逆光を背負った男がこちらを認めて手を挙げた。

古いヴィンテージのシャンパーニュで乾杯をすると「女房と離婚してその女優と再婚しろって言うんだよな、親父もおふくろも。」と友人が言った。彼は名家の長男で、血筋に議員や医者が占め、結婚すれば跡取りをごく自然に求められる家系であったが、それがスムーズにいかなかった。奥さんが途中で罹った病の薬で産めない身体となった。

両親がその不満を隠さなかったことで彼の妻とは何年も会っていなかったはずである。

昨夏、彼の仕事都合で夏休みがずれ、妻側の里帰りについていなかった隙に、友人は、若い女との関係に弾みをつけた。それが冒頭の不倫相手である。それを今回、実家で話した結果が先の両親の言葉となった。

息子の不貞を責めるより、両親は目を輝かせて血筋の義務を果たす提案をやめなかった。

相当額の慰謝料の提案も具体的にしてきた、と友人は話しながら、舞台メイクで首から背中までタトゥーの入った愛人の写真を私に見せて笑う。

どうするつもりだ?と尋ねる選択肢を持ち合わせていない私は、届けられた前菜を2人分に取り分け、去年リリースのサンセールとともに口にする。ワインの蜜香は弱く味わいも軽いが、初秋とはいえまだ麗らかな気候には、溌剌とした酸味が食欲をそそる。

いつも元気でかわいいんだよなあ。と、スマートフォンをのぞき込みながら目を細め、喉仏を上下させながら白ワインをごくごく飲んで「選択肢はいつもこちらにあった方が楽しいよな」と話す。

シュークルートが運ばれてくる。

豚のソーセージと豚のコンフィが鍋の中で存在を示す。重そうですらある。

豚肉がこうも旨味を引き出されるものか。

はち切れんばかりのソーセージと、時間をかけて仕込まれた柔らかい肉。

古いシャンパーニュと、若いワイン。

女房と、26歳の愛人。

わたしの頭が何かを言おうと画策している。しかし、友人が、おのれの欲望に従った以上、正論の中にこたえはない。別れ際、友人は「今度、札幌に連れてくるからよ」と言ったが、どちらの女のことを指しているかは聞かなかった。

翌日、自転車に乗っていると、夕焼けのはじまりの歩道の上に、カラスがたかるふっくらとした山があった。それは陽をふくんで白銀に輝く美しい鳩の羽毛のすべてであり、その中にカラスにつつかれ死んだ鳩の赤い死骸があった。

あるがままの死と生の繰り返しを見て気づく。

夏の暑さも、過ぎてしまえば忘れる。友人の言動、奥さんの思い、若い女優の誇らしげな笑みも、名家の画策ごとも、いつかきっとなにもおぼえてはいない。

なにより、いまの私や、私の暮らしにはまるで関係がない。

ただ静かに時が過ぎるのを待てばよい。

あなたがなにかを言ってくれるはずである。

今回の不親切案内

「H」

狸小路とノルベサの間のセブンイレブン角から西陽を頼り、そこから見える雑居ビル2階。

【HAC 冬号 エッセイ】

「会員制のバーで飲む、または厳冬奇譚」

連日の誘いを断らなかったバチが当たって、数杯でしこたま酔った夜のことでした。よせば良いのが此の夜は、格好をつけて飲むときに行くと決めている会員制のバーの扉を二軒目として開けました。こぢんまりとしたL字のカウンターをなぞり、ひとり一番奥の席に着く。赤褐色の壁、額におさまる花写真、闇に溶けた10席に満たない間。

大先輩である店主が、どうしますか。とシャンパーニュボトルをさりげなくこちらに向けるのを受け、両手でおしぼりを揉みながら一杯お願いします、宜しければお付き合いください。と促し、主人と乾杯をした時に気づいた。客は私と、それぞれひとり客が2組。

ひとりは、店の真ん中あたりタートルネックとハリスツィードのジャケットの品良い紳士が紫雲をくゆらせ、ピノノワールと思しき赤ワインを飲んでいる。

そして、私から見ていちばん奥、つまりカウンター正反対に、酔い腐れた視力と暗さでいまひとつわからないものの、柔らかなオフホワイトのブラウスを着た女性客がいた。たおやかな長い髪が、うつむく横顔のさまと良く合って見え、私は己の歪んだ姿勢を糺して喉奥で小さな咳をする。

不意に紳士と目があう。父親以上の歳である。「不思議な話があるんで聞いてチョウよ」
そう話しかけられる。あるじが酔客の語り口を止めない時は、信用の証である。こちらも弛んだ笑顔を作り、伺いはじめる。

「ワシは親父の代から洋品店の卸を営んで居ります」洒落た風貌に合点がいく。「バブルの時は仕入れた服に値札を貼る前にぜんぶ売れてしまうもんで、当然調子に乗って稼いだ金はぜんぶ酒と女と馬にくれてやったデよ」
微笑む店主に赤ワインを注ぎ足された紳士は、ステムをつまみながら「そらあ店は傾くでショウ」と笑う。「数年は辛い思いデよ、値付けの上げ下げから、仕入れや人減らしまでなんでもやるでショウ」

私は、紳士の語りに頷きながらも、端で佇む女と、目でも合わないものかと密かに期待している。

「結局ワシは、サボった歳月の倍以上、身を粉にして働く以外、立て直す道はなかったってことデよ。でも1週間ほど前、むかしから世話になっている顧客の大女将に会って不思議なこと言われたデよ。うちは住処と店舗が一体になっているもんで、その入り口のシャッターに、夜になると、白黒の忌中の貼紙がされていたことがあるって話すでショウ、ワシ、そらあずいぶん驚いて」

え。と思わず声が出た。いつのことですか?と尋ねる。

「それ、いくら頑張っても商いが真っ赤っかの時期のことデよ。毎晩ずうっと貼ってあったっていうんだわ。もちろん葬式なんて出してないでショウ。しかもこっちはそこに住んでるわけで、出かけて夜帰る時も入り口開けて通るわけだでも、一度もそんなもんみたことなんかないデよ。だけどお客さんみいんな数年のあいだ、気味悪がって近寄らなかったってハナシ」

紳士とふたり、そのからくりに幾つかの仮説を立て盛り上がった後、彼はタクシーの手配を店に頼んだ。北の道は凍結している。到着後、私は彼に付き添い、タクシーまで見送る。そして己の足取りのひどさから自らも尻もちをついた。そろそろ撤退した方が良さそうだ。ようやくあきらめがつきつつも、くだらない未練が残る。
女性客に挨拶くらいはして帰りたい。

店の扉を開けるにひとしく、あるじが出てきて手刀を切り「トイレ。店番よろしく」小ぶりな店内にはない、ビル共用のそこに向かう。
微かな機会。私は、女性客にまるで興味のないそぶりで席につくあいだ、ちらりと目配せをする。そして目を張った。心は、底まで凍りついた。
女は老婆であった。オフホワイトのブラウスは正絹の死装束であった。縦結びの帯で右上前に重ね合わせられていた。うなじより低い位置に一本に束ねた白髪、深い皺に包まれた横顔は、うす闇のなか、もの憂げにおし黙る。
そこまで。ーーそこまで。

のちのことは、どう帰ったかも含め、
なにひとつ思い出せずにいる。

本日の不親切案内。
すすきのに入る手前の通りにあるビル一階「T」※会員制

【HAC機内誌初夏号】

「ドイツ製のジンを飲む」

陽射しに角度がついて、静かに初夏のはじまりを告げる夕方でした。
気に入っているシャツが受ける風で、すこし気持ちが保たれて、いつも混んでいる馴染みのバーに連絡もせずに寄ってみるとすんなり通される。そういえば、と、日中の赤信号にもあまり捕まらないでいたことを思い出す。
席についてジンを頼むと小さく品の良いグラスに注がれる。

お早いお越しですね。

とマスターより尋ねられるのを、そうですね。
とだけこたえ、今日はちょっと内内のことで臨時休にしたという事情は話さずにちびりとやった。

この、ドイツ製のジンは食道から胃を通るあいだ、冷たくも熱くも感じられ、風味がうつくしいと思って飲んでいる。気持ちがおちつく。

こんなに素晴らしい雰囲気を、本誌のこの連載にでも、と思って勝手に文にして読み返すとどうも心もとない。おさまりのわるい流れと貧相な表現が目につく鼻につく。
きっと素人手腕の問題だけではないだろうと思っていたら、手厳しいと評判の編集をこなす友人が指摘をしてくれた。

きみの文章には人に寄りそう感じがないからな。言っちゃあ悪いけれど、人間の弱いところをみつめて許す幅を持っていない人柄が露呈しているもんなあ。ハハハ。

なるほど。と、平静のふりをしつつ合点がいく。と言うよりも本当は返す言葉が浮かばない。
確かにそうなのだった。私は私のことをすっかり棚に上げきって、しかもそこから人様に指を差しながら正しいことばかりを話している。嫌な気持ちになると、自分のせいにするのは申し訳ていど、あとは誰かのせいにする癖が治らない。酒に飲まれる人間はきらいなくせに、自身には思い出さないよう、心を塞いだ夜がある。

若い頃、東京に暮らしていたことがある。
あの街で人生初の賞与をもらった勢いで当時気に入っていた女性と青山のバーに行った。
泡だ白だの赤だのなんだと、ワインを痛飲してしこたま酔った勢いで、同じ並びのカウンターで、5席も離れた常連と思しき紳士に赤ワインを引っかけてしまった。正確には、彼によく似合う(だろうはずの)椅子にかけていた白い麻のジャケットに、だった。本来なら届くはずの距離ではない。
私は、置こうとしたグラスを誤って倒す刹那、勢いよく手を伸ばして転倒を防ごうとした。それがすべて良くなかった。私の指は(それは見事に)グラスの脚を払う所作となり、大ぶりのリーデルグラスは弧を描き、真紅の液体を虚空に吐き出しながらジャケットに接地し、堕ち、粉々に砕けた。

その音が合図のように、これほど人が居たのかと思うほど、火事場を納めるスタッフが店の奥から出てきてジャケットに駆け寄ったものの、誰の目に見ても真夏の一張羅は、血塗れの即死であった。謝るマスターに紳士は、いいからいいから。と言って微笑んでいた。
呆然とその場に凍りつきながら私はいまだなんらかの体裁を保とうしていた。つまりそれはどうにかして時を戻そうと言う相談に等しかった。私は当時からその程度の男なのである。ようやく、いちばんのそれは、謝罪であることに気づき被害者へ近寄り、こう言った。

もうするわけあるません。

発した言葉の不出来に、店内に空っ風が吹いた。それから紳士の品格ある口髭が小さく動いた。「次にやったら怒りますよ」

あのとき誘った女性のことを、私は恥と未練と共に覚えているが、彼女は私の名前すら覚えていないだろう。
あの季節から25年ほど過ぎて今、自分の人間の幅はいかばかりかと思う。いっそのこと、このお気に入りのTシャツを誰か汚してはくれまいか。そのとき私は何と言うのか。

この店は、その答えをさぐる時間をくれるバーである。と書けば格好はいいが、これは正確ではない。何ぴとにも寄り添ってくれるバーなのである。

今回の不親切案内
バーR
すすきの交差点から北西に徒歩3分、大きなオブジェがあるビル10階
日曜休

【HAC機内誌冬号】

「会員制のバーで飲む、または厳冬奇譚」

連日の誘いを断らなかったバチが当たって、数杯でしこたま酔った夜のことでした。よせば良いのが此の夜は、格好をつけて飲むときに行くと決めている会員制のバーの扉を二軒目として開けました。こぢんまりとしたL字のカウンターをなぞり、ひとり一番奥の席に着く。赤褐色の壁、額におさまる花写真、闇に溶けた10席に満たない間。

大先輩である店主が、どうしますか。とシャンパーニュボトルをさりげなくこちらに向けるのを受け、両手でおしぼりを揉みながら一杯お願いします、宜しければお付き合いください。と促し、主人と乾杯をした時に気づいた。客は私と、それぞれひとり客が2組。

ひとりは、店の真ん中あたりタートルネックとハリスツィードのジャケットの品良い紳士が紫雲をくゆらせ、ピノノワールと思しき赤ワインを飲んでいる。

そして、私から見ていちばん奥、つまりカウンター正反対に、酔い腐れた視力と暗さでいまひとつわからないものの、柔らかなオフホワイトのブラウスを着た女性客がいた。たおやかな長い髪が、うつむく横顔のさまと良く合って見え、私は己の歪んだ姿勢を糺して喉奥で小さな咳をする。

不意に紳士と目があう。父親以上の歳である。「不思議な話があるんで聞いてチョウよ」

そう話しかけられる。あるじが酔客の語り口を止めない時は、信用の証である。こちらも弛んだ笑顔を作り、伺いはじめる。

「ワシは親父の代から洋品店の卸を営んで居ります」洒落た風貌に合点がいく。「バブルの時は仕入れた服に値札を貼る前にぜんぶ売れてしまうもんで、当然調子に乗って稼いだ金はぜんぶ酒と女と馬にくれてやったデよ」

微笑む店主に赤ワインを注ぎ足された紳士は、ステムをつまみながら「そらあ店は傾くでショウ」と笑う。「数年は辛い思いデよ、値付けの上げ下げから、仕入れや人減らしまでなんでもやるでショウ」

私は、紳士の語りに頷きながらも、端で佇む女と、目でも合わないかと密かに期待している。

「結局ワシは、サボった歳月の倍以上、身を粉にして働く以外、立て直す道はなかったってことデよ。でも1週間ほど前、むかしから世話になっている顧客の大女将に会って不思議なこと言われたデよ。うちは住処と店舗が一体になっているもんで、その入り口のシャッターに、夜になると、白黒の忌中の貼紙がされていたことがあるって話すでショウ、ワシ、そらあずいぶん驚いて」

え。と思わず声が出た。いつのことですか?と尋ねる。

「それ、いくら頑張っても商いが真っ赤っかの時期のことデよ。毎晩ずうっと貼ってあったっていうんだわ。もちろん葬式なんて出してないでショウ。しかもこっちはそこに住んでるわけで、出かけて夜帰る時も入り口開けて通るわけだでも、一度もそんなもんみたことなんかないデよ。だけどお客さんみいんな数年のあいだ、気味悪がって近寄らなかったってハナシ」

紳士とふたり、そのからくりに幾つかの仮説を立て盛り上がった後、彼はタクシーの手配を店に頼んだ。北の道は凍結している。到着後、外まで付き添いタクシーまで見送る。そして己の足取りのひどさから自らも尻もちをついた。そろそろ撤退した方が良さそうだ。ようやくあきらめがつきつつも、くだらない未練が残る。

女性客に挨拶くらいはして帰りたい。

店の扉を開けるにひとしく、あるじが出てきて手刀を切り「トイレ。店番よろしく」小ぶりな店内にはない、ビル共用のそこに向かう。

微かな機会。私は、女性客にまるで興味のないそぶりで席につくあいだ、ちらりと目配せをする。そして目を張った。心は、底まで凍りついた。

女は老婆であった。オフホワイトのブラウスは正絹の死装束であった。縦結びの帯で右上前に重ね合わせられていた。うなじより低い位置に一本に束ねた白髪、深い皺に包まれた横顔は、うす闇のなか、もの憂げにおし黙る。

そこまで。ーーそこまで。

そののちのことは、どう帰ったかも含め、

いまだなにひとつ思い出せずにいる。

本日の不親切案内。

すすきのに入る手前の通りにあるビル一階「T」※会員制

そな田日記